もうはまだなり、まだはもうなり

アラサー会社員が綴る日々の思うことと備忘録など

クラッカーの使い方

今、風呂から出てストレッチして、急に思い出したことがあります。

 

クラッカーってあるじゃないですか。あのお誕生日とかに使う音とか紐とかの出るやつです。

 

昔、某ハプニングバーに行った時、ある女性に話しかけられました。その女性はクラッカーの紐の方を女性器に入れて、ぼくに、本体の部分を引っ張ってほしいと言ってきました。改良されたクラッカーで、紐に何かを巻きつけ、その何かを女性器にいれていました。その女性は40歳くらいの細身の方で、ぼくは快諾しました。

 

ぼくは緑のクラッカーを引っ張りました。紐の部分のずっしりした安定感を覚えながら、パンって、音だけがなりました。

 

 

 

 

 

 

 

夏と満月とブルセラ

今年の夏は雨が多かったが、この日はとても晴れてて夜の20時になっても汗ばむほどであった。

 

僕は新宿の街を歩いていた。新宿は人ごみがすごいこともあってあまり好きではなかった。でも、この日はちょっとした用事があったので仕方なくきたのである。用事をすませたあと、少し街を彷徨った。

 

少し繁華街から外れると、人ごみも減ってきた。駅周辺の華やかなビルとは比べものにならない、古くて低いビルが肩を寄せ合って建てられている。みんな灰色で、築20年はゆうに超えてる。

 

そんな古いビルの入り口に、レコード屋の看板があった。緑やオレンジの原色を多用して、目がチカチカした。レコードなんて聞いたことないし、ターンテーブルもないけど、それとなくそのビルに吸い込まれて、二階のレコード屋に入った。店員は常連の客と話しており、店内には低音が鳴り響く。ぼくは、案の定、どうしたら良いかもわからずちょろっとレコードを見て店をでた。

 

この雑居ビルって他にどんな店舗があるのか、もしかしたら、ヤグザの事務所だったりしてといった無駄な好奇心が働き、階段で2階から3階に登った。

 

その三階には店名と営業中と書かれた看板があるだけだった。その扉は一面灰色で、中を見るためのガラスもなく、なんの店かすらよくわからなかった。でも、長年の勘から、この店の醸し出すこの雰囲気は堅気ではないとすぐにわかった。

 

すぐさま、ポケットから携帯を出して、その店名を調べた結果、すぐにわかった。そこがブルセラショップだと。

 

ブルセラショップとは

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ブルセラ

 

ブルセラショップの存在は知ってたものの、入っことがなかったぼくは、少し躊躇した。しかし、緊張しながらその重い扉を開けた。中に入ると、思ってたより広くて、明るい。店内はビニールカバーに入っている制服がたくさん掛けられていた。

 

入ってすぐに見える店員さんは60を越えたであろう初老の小太りのおじさんだった。デニムのエプロンをしてて、昔よくミニ四駆を買ったおもちゃさんのおっちゃんを思い出させた。ここにはミニ四駆ハイパーヨーヨーの代わりに女の子の制服や使用済みの下着が販売されているのである。

 

ぼく以外には客が2人ほどいた。二人とも真剣に下着を物色している。このコーナーが一番の売りなのか面積が広い。

なので、ぼくもそのコーナーに行って見た。透明のプラスチックのケースには、女の子がスカートを上げた写真とともにその子が履いていたパンツが入っていた。もちろん、未洗濯のものである。

もうなんだかよくわからん気分になって、いろいろ物色をした。500個(枚)はあるであろうパンツを、写真とパンツを見ながら。くそブスもいれば、えっまじかわいいって子までいる。とりあえず片っ端からチェックしていく。ちょっとかわいい子がいた。えりかちゃんである。下着は黄色でレース。

 

ぼくより先にいたお客さんたちは、どうやらお目当のパンツを決めたみたいで次々と購入して行った。

 

もうここまできたら、ぼくも買わない手はないなと思い始めた。たぶん、夏のせいである。ぼくは、えりかちゃん下着姿でこちらに微笑んでいる写真とパンツが入った箱を持っておっちゃんのとこに行く。中学生の時にエロ本を買った時ばりに緊張した。

 

ちなみに、値段は4000円である。高い。いや、高い。でも、買う。

 

それからビルを出る。さすがに持って帰るのも気がひけたので、駅のトイレで開けてみた。とりあえずにおいをかいだ。

 

えもいえない、酸っぱいにおいがした。

うーん。あーあ。女の子の服の甘い匂いと酸っぱい香りが混ざってる。あー。ひょー?イイカオリ、ナノカ?コレガメスノカオリ?オシッコのカオリ?

 

パンツをスンスンしながら、これは超えてはいけない一線かもしれないとふと我に返った。客観視して、トイレにパンツを置いて行く決断をする。ぼくは電車に乗って、帰路に着いた。

 

最寄駅に着くと、いくらか涼しくなっていた。なんだか清々しいきぶんで、空を見ると満月だった。えりかちゃんのパンツと同じ色の月だった。ありがとう、お月さま。

 

さて、妻と子供の待つ家に帰ろう。

 

 

 

幼児に英語を学ばせたいか。

  私には2歳の娘がいます。先日、同年代の子供を持つ友人から、習い事を何させるかという話になりました。私は特にまだ何も考えておりませんでしたが、他の友人からも習い事の話を聞くと、小さいころから英語を勉強させたいと思っている親が多いようです。少しネットで調べると子供用の英語塾やディズニーの教材等、幼児・子供用の英語教育ビジネスはあふれていました。

 確かに、英語ができる人(例えば、帰国子女)には憧れます。高校生の時、初めて帰国子女と出会い、英語の発音のきれいさや流暢さに驚くと共に、自分の文法も滅茶苦茶なカタカナイングリッシュを恥じました。当時は、英語ができるなんて超すげぇし、クソモテるじゃんって羨望のまなざしでした。
 それもあってか今では理由は思い出せませんが、高校生くらいから、駅前留学したり、留学したりして、真面目に英語の勉強をしました。でも、全然上達はしませんでした。人よりほんのちょっとできるとかそんなレベルです。今は仕事で英語を使う環境におり、毎日悪戦苦闘しております。

 かといって、自分の子供を幼児から英語の勉強をさせて、英語をしゃべれるように教育したいかというと、そうでもないなーと思っています。

①英語の必要性がやや疑問説
確かに英語ができた方が、人生において色々選択肢が広がるかもしれません。でも、英語を使う場面ってそんなにありますか?みなさん、今まで日本で普通に暮らしてきて、英語で出来なくて困ったことってあります?大体の人にとっては英語を使った仕事にはつかないと思います。海外旅行でもまあそんなに英語が出来なく困ることもないような気がします。色々知りたいことがあったとしても、大体の情報は日本語で書いてありませんか?教科書だって専門書だって日本語に訳されているものもありますよね。
ほしい情報は英語しかないとか、海外の大学で勉強したいとか、そういった目標が明確になってから、英語の勉強を真剣に始めればよいと思います。
なので、幼少期から、英会話教室に通って「I wannabe a great soccer player!」とか言っている暇があれば、英語なんてやらないでサッカーの練習したほうが夢が広がりませんか?

②幼少期に英語をマスターさせるための労力が多大説
 よく知りませんが、英語をマスターさせるには2000時間かかるようです。幼少期の場合は、吸収が早いので、もっと短いようです。でも、週に数時間の英語教室では、時間、足りなくありませんか?家にいる間はずっと英語のDVDでも流しているのでしょうか?子供は親からも言葉を学びます。親と子供も英語で話すのですか?その反面、母国語である日本語の勉強の時間減りませんか?多分、親も相当な覚悟を持って英語の勉強をさせないと、語学なんて使わないとどんどん忘れていってしまい、幼少期の英語の勉強にかけた時間やお金があっという間に水泡に帰す気がします。

③ITの進展に伴い、語学の壁がなくなる説
 英語を学ぶ目的って、そもそもコミュニケーションすることや情報を得ることだと思います。近年、ITの進歩はすさまじいもので、最近のgoogle翻訳は、精度が上がってきており、和文英訳も、英文和訳も結構それっぽい感じになります。今は文字ベースでしか対応しきれていませんが、10年後には、音声の同時通訳アプリがiPhoneに標準搭載されているかもしれません。それくらいITの発展はすさまじい気がします。高校生(15年くらい前)の時に使っていたエキサイト翻訳もすごいと思っていましたが、今のgoogle翻訳はもっとすげえ。だから、幼少期に一生懸命勉強したけど、大人になる頃には、英語のスキルが一般化され、その価値が暴落する可能性はリスクとして残ると思います。

 

 先日、Eテレの英語番組の毎朝見ていただけの娘が、突然「I’m (自分の名前).」としゃべりだして、うちの子は神童に違いないと思い、考えが覆りそうになり、ディズニーの英語教材を申し込もうと思いました。でも、英語なんてただのコミニケーションツールでしかないし、幼少期にやらないことってもっと他にあるよねと考え、辞めました。

そんな矢先、娘より「おとーたん、うんこ。」

「そうだね、まずは綺麗な日本語を勉強しようね。」

I had my wisdom tooth pulled out.

親知らずのうち下の二つともが虫歯になり、かなり痛むようになったので、ついにその一つを今日抜きました。

 

私の場合、下の親知らずは両方とも歯茎の中にほとんど埋まってるため、大学病院で手術でしか抜けなかったので、会社休んでいってきました。

 

痛みとかにめっぽう弱い私は、歯茎に麻酔をするタイミングビビって貧血気味になり、クラクラ、ハァハァしました。完全にビビりでした。

 

無事に20分くらいで抜けたので、手術自体はそんなに痛みもなく、思ってたより大したことありませんでした。虫歯のあたりは麻酔がなかなか効かず、大量に投与してもらいました。

 

今日一番勉強になったのは、親知らずって正式には智歯(ちし)っていうらしいってことです。英語でwisdomtoothっていうのは知ってたけど、完全に英語を訳しただけでは?

 

ちゃんと歯は磨きましょう。

屋久島での出会い

実は、昔、住んでた埼玉から屋久島まで、自転車で行ったことがある。大学三年の頃になんとなくテレビで見た屋久杉を実際に見るために、その年の夏休みをフルに使って旅に出た。 

 

自転車で一ヶ月もかけて屋久島にたどりついたぼくは、観光案内所に向かっていた。確か16時くらいで、太陽は落ち始めてたけど、まだ明るい夕暮れだった。プレハブの観光案内所には、(ピークのシーズンでもなかったし、平日だったこともあって)暇そうなおばちゃんしかおらず、そこで安い宿を探してもらったり、屋久杉の観光ルートを相談していた

 

 

そこに、1人の女性が案内所に入ってきた。年齢は、当時のぼく(21歳)よりは少し上めで、登山帰りの格好をしていた。大池さんと言うらしい。その女性も混じって、いろいろおばちゃんから話を聞いた。どうやら大池さんは、この付近で美味しい夕飯を食べれるところ探しているようで。おばちゃんから、17:30分から向かいの居酒屋で美味しい刺身が食べれると紹介されていたので「ぼくも一緒に行っていいですか?」という感じで、一緒に行かせてもらうことした。お店が開くまで時間があったので、2人で外に出てスーパー(Aコープ)に行ったりして、自己紹介したり旅の話をしてたら、あっという間に開店の時間になった。

 

大池さんは、東京に住んでて、ぼくより5歳年上の26歳。信用金庫に勤務してて、夏休みを利用して1人で屋久島に来たそうだ。ぼくより2日前に泊まってる屋久島に来てて、明後日帰るらしい。一人旅が好きでよくふらっと出かけるそうだ。肩くらいまであるやや茶色の髪は軽いパーマが当てられていた。いい意味で健康的な体つきだった。

 

お店が開く時間になって行ってみると、既に3組の客が入っていた。ぼくたちは、オススメの刺身定食を頼んだ。しかし、このお店、出てくるのがすごい遅かったのである。6時をすぎたころ、壮大なボリュームの刺身定食が提供された。首折れ鯖とかトビウオとか、あと、亀の手ってやつが美味しかった。

食事を食べ始めると大池さんが何度も時計を見ていることに気がついた。居心地悪いのかなと思ったけど、聞いてみると泊まってるホテルへの路線バスが6時20分で最終となってしまうらしい。テーブルの上のお刺身定食をみるにどう考えても、その時間までに食べ終わることは無理であった。

 

大池さんは開き直って、「もー間に合わないから、ゆっくり食べよう!」と言ってマグロの刺身を食べていた。それから、1時間くらい色々話してお店を出た。とりあえず、ぼくも大池さんも恋人はいないことがわかった。

 

どうやって帰ろうかなという大池さんに、冗談半分でヒッチハイクでもしてみたらどうですか?と提案した。それいいかもと言うことで、試しにぼくが路側帯に出て左手をあげた。夏とはいえ、夜も七時になると真っ暗である。そしたら、なんと奇跡的に5分くらいして一台の車が止まった。人生初のヒッチハイク、大成功。止まった車のトビラを開けて、大池さんが車に乗った。

 

ぼくは、その夜はその食堂の近くのおばちゃんの家みたいな宿に泊まる予定になってたので、それじゃあと彼女に言った。正直彼女ともっと色々話したかったけど、引き止める理由もなかったので、「またどこかで。」なんて気取って言った。

 

ところが大池さんは「1人で乗るの怖いかも。」と。運転手のおじさんも「早くにいちゃんも乗りなさんな。」と言うことで、何かの縁だなと成り行きに身を任せて車に乗った。

 

車には親子が乗っていた。お父さんと息子。息子は小学校低学年くらいで、この男の子が止まってあげてと提案してくれたことで、ぼくの最初で最期のヒッチハイクが成功したようだ。この男の子から、ポテロングをもらった。いいやつだった。今頃、多分素直ないい子に育ってるでしょう。車を10分ほど走ったところで、大池さんの泊まっているホテルに着いた。僕たちは御礼を言って車を降りた。

 

それから2人で少しホテルの周りを散歩した。そして、バスがこないバス停のベンチに2人で座り、また少し話した。予約した宿に戻るのはおそらく無理なので、野宿をするつもりだったぼくに対して、大池さんは「私の部屋で、シャワーだけでも浴びる?」と。少しびっくりした。これはアレな展開なのか?あれれー俺たち付き合ってないよねー?もう?いいの?年上のおねーさんは違うなぁ。と

 思い「えっ、いいんですか?」と返したあと、「あー、でも、部屋汚いからあげられないやー。」と。下心が読まれたのかな。それから、大池さんは、部屋にあるポカリとか虫除けとかお菓子を持って来てくれて、自分の部屋に帰ってしまった。それから一人でそのバス停に寝ていたら、散歩中の犬に飛び乗られたり、夜中に警察に職質されたりした。

 

東京に帰って、何度か大池さんとデートした。山に登りに行ったら、公園行ったら、飲みに行ったり。でも、ぼくは学生だったしなんとなく付き合う感じではないまま、自然と会わなくなってしまった。告白してたら、どうなってたかはわからないけど、なんとも甘酸っぱい思い出である。

 

この間、ラインの友達かもに大池さんが表示されてたのを見つけた。アイコンは二人の子どものだった。「元気ですか?」って打って送信せずにラインを閉じた。

もう仕事に疲れたので、会社を2日連続でサボった。

昨日(月曜)と今日(火曜)と2日間連続で会社サボった。今、部全体として割と忙しくてこのタイミングで休むとか社会人としてどうなのかって思うんだけど、くそみたいな仕事のせいで、精神が参ってるみたいだから、そんなの関係ねぇって感じで休んでやった。It doesn't matter!

 

実はここ最近毎日仕事に対する不安を抱え、土日も仕事のことを考えては憂鬱な気分になり心が休まらず、職場では手汗足汗が止まらない状態になってしまっているのである。多分、自律神経とかおかしくなってるのでしょう。認知行動療法ってのを勉強しているところ。ストレスと向き合わなきゃいかん。

 

とりあえず、なんも考えずにやりたいことやろうと思って、昨日はピンサロとヘルスをはしごした。最高だった。それから漫喫でワールドトリガーを一気読みした。夕飯食べてからマッサージにも行った。

 

本当は今日は会社に行こかと思ってたけど、朝起きたら会社に行く気分じゃなかったので、また休んだ。会社に休みの連絡入れたあとってなんであんな清々しいのだろか。それで、朝からまたヘルスに行って、昼に寿司食べて、今スーパー銭湯に来ている。昼間っから露天風呂に入って、仮眠所でダラダラしている。平日なのにものすごく混んでるんだけど、みんな何者なんだろうか。若い人も多いし。

 

しかしまぁ、多分明日会社行ったら怒られるか嫌味は言われるだろう。でも、仕方ないんだよ、多分無理したら潰れちゃうんだよ。俺、いつでも心に余裕を持って生きてたんだけど、なんだか最近毎日余裕がなくて、すごく辛いんだよなぁ。男の更年期なのだろうか。

 

なんにせよ、明日は会社に行くぞ。明日休んだら社会復帰はできなくなる気がしてる。完全にダークサイドに落ちてしまう。二日間楽しかったし、また頑張りましょう。

 

みんなも辛い時は会社休むといいよ。体や心がおかしくなる前に休息は必要だよ。

大人になってからおたふく風邪になった話 その③

8日目


病院で迎えた朝はとても早い。午前6時少し前に目が覚める。
部屋の外からは看護師さんのパタパタと小走りする足音が頻繁に聞こえてくる。
「そういえば、入院したんだな、俺」と思いながら、病室に洗面所もついているので、点滴スタンドを引っ張って洗面台に行き顔を洗う。
やはり玉が痛いので、ベッドから降りる作業がとてもつらい。歩くのもつらい。

顔を洗っていると看護師さんが来て、タオルとコップを持ってきてくれた。
夜の突然の入院だったので、何も持っていなかったので、貸してくれたのだ。

当時は初夏だったので、氷まで持ってきて、冷たい水を一気のみした。


水を一杯飲んで、ベッドの端に座る。
部屋からは出られないが、朝の儀式のとしておしっこをしようと思い、尿瓶をあてがうもあんまりでない。いつ看護師さんが病室に入ってくるかなどと考えてしまうため(意外とこういうプレッシャーに弱くて)ちょろっとしかおしっこが出なかった。

 

ベッドで寝ていると7時くらいに朝食を持ってきてくれた。パンとスープとサラダだった。パンは暖かくて、全体的においしかった(意外である。)。

バケツ便座でうんこはしたくなったから、きっと数日経てば大部屋に移動できると信じていたので、まぁ数日くらいうんこは我慢していけばどうにかなるだろうと踏んで、ごはんを一杯食べた。おしっこはするたびに看護師さんに持って行ってもらうことになる。

 

ご飯を食べたら、シャワーに入れない代わりに、体拭きの時間となる。体拭きようのお湯を持ってきてくれたのが夜担当の看護師から昼担当の看護師に変わった。若いたぶん22歳くらいの茶髪の可愛い看護師さんだったので、ちょっとエロイ展開を期待するするも、自分で体をふくことになる。

ちなみに、解熱剤を点滴経由で入れているので、熱はそこまで高くない。ただ、薬が切れると途端に40度近くなる。

それから妻が会社を午前半休してきてくれて、入院に必要なものを受け取る。ありがたや。やることがマジでないので、次来るときに本を持ってきてもらうようお願いした。

西加奈子のサラバを買って読んでいなかったので、それをもってきてもらった。)

 

点滴で水分補給もされるし、普通にお昼ごはんも食べたりしたのに、まったくおしっこがでなかった。前述の通り精神的なプレッシャーで。昼下がりの3時くらいにかわいい看護師さんに、「おしっこ全然出ないですねぇ。あまりでなければ対策を検討しなければならない。」ということを言われ、おそらくカテーテルになりそうだったので、何度も集中しておしっこをしようとして、やっと夕方になって出た。2リットルもおしっこが出てマジビビった。すぐ看護師さんを呼んで持って行ってもらったけど、こんなに出たんですか!と驚いていた。俺も驚いたよ。

 

夕方主治医の先生が、来たんだけど、大学病院ゆえ、たぶん大学生っぽい女の先生も連れてきて、玉の腫れ具合をチェックされた。なにこれ、くそ恥ずかしい。玉のスケッチとかもされた。それから、先生が玉を冷やすようにという指示があり、それ以降、玉に氷をあてる続ける。

 

相変わらず玉は痛くて、あんまり歩けないし、熱は夜になると上がるので、かなりしんどくて、消灯の9時前には寝た。でも、やっぱり夜中に寒気がして目が覚めた。どう考えても熱があるが、とりあえず布団に潜り込んでうーうー唸りながら、耐えているうちに寝たようだ。

 

9日目

私が入院している部屋は、緊急外来用の個室である。なので、いろんな人がいるみたいで、隣の病室の方が亡くなりかけているようで、ご家族からの「おとーさん、目を開けて!」「息をしてーっ」みたいな声で目が覚めた。ここは病院なんだなぁなんて思いながら、生と死ですなぁとかのんきに思っていた。

 

さて、相変わらず、玉が痛い。熱もある。やることがないので、ひたすらネットサーフィンをしていた。昼飯を食った後、ついにやってきてしまった、その時が。

めちゃうんこがしたくなった。とりあえず、我慢してみたけど、少なくとも部屋の移動の話が出てこないし、もっても数時間である。意を決して、うんこをする。はじめはやっぱり出ない感じであったが、やってみると結構出た。2日ぶりくらいである。で、しかたなく、ナースコールで「あのぅ、排便しました…」って言って持っていってもらう。すげえ恥ずかしいので、看護師さんが来た時はとりあえず、顔を合わせないように携帯をいじっていた。うんこを流した看護師さんが戻ってきて、「今度からは拭いた時に使った紙は別に捨ててください。」と注意を受ける。そんな話聞いていなかったけど、うむ。ごめんなさい。もう二度とうんこしたくない。

 

この日は主治医の先生だけ来て、玉の腫れ具合チェック。とりあえず、どうにか大部屋に移動できないかお願いしておいた。どうやら、明日、初日の検査結果がでるため、それ次第で移動できるそうだ。

 

10日目

昼過ぎに待ちに待った検査結果の発表である。さすがに頬も腫れていないから、おたふくは問題ないだろうと思ったが、まさかのまだおたふくの菌が確認されたらしく、個室継続決定。ううう…

とりあえず、日中は玉を氷で冷やして、寝ている。夜の熱はだいぶ楽になってきたが、38度とかにはなる。サラバを読み始める。意外と面白い。けど長い。

 

11日目

この日も玉を氷で冷やしたところ、看護師さんから部屋の移動をされる。俺が入院している部屋は緊急外来用の部屋なので、泌尿器科の病室に移動とのこと。まぁどうせ、またトイレないんでしょ?はいはい。と思っていたところ、部屋の空き状況の関係で、一番高い部屋に移動が決まる。ベッド差額金25000円の部屋。しかも、部屋にトイレがあるし、接待用の机もあるし、テレビもカードなしで見られるという最高な環境となったのである。でも、部屋からは出られないし、点滴ついてるけど。

もちろん、私の意思で入った個室ではないので、別途差額金は発生しない。最高。

更に、この日から熱が出なくなくなる。でも、玉は痛いし、腫れている。

夕方の診察で、片玉の腫れはおさまってきていたことが判明。

そういえば、書いていないけど、入院して毎朝、看護師さんに玉のチェックを受けている。結構恥ずかしいけど、だんだん楽しくなってきて、若い看護師さんとかだと意気揚々に見せるようにしていた。あと、玉が腫れすぎて、皮が剥け始めた。こんなことってあるのかいな。

 

12日目

デラックスな個室に移動してからは、熱も出ず、トイレに自由に行けるため、自由を謳歌していた。

あとは、玉の痛みさえなくなればということで、氷で玉を冷やす以外は本を読んだりお昼寝したり最高の人生だった。サラバを読み終わる。なかなかの大作で満足した。

 

13日目

玉の痛みがだいぶ引いてきた。とりあえず、先生に退院したいっすっていう話をする。

血液検査の結果で判断しましょうとのこと。明後日には結果がでますとのこと。

 

14日目

何もやることがないので、ダラダラする。この日には点滴も外れる。

退院もいよいよか。ご飯食べる昼寝する読書する昼寝するご飯食べる寝るを繰り返す。堕落しているが、一生こういう生活したい。

 

15日目

検査結果、問題なしということで退院が決まる。ここで初めて、個室から出ることが許される。マジ幸せ。

お財布を病院に持ってくるのが怖かったので、家においていた。なので、財布を取りにタクシーで家に帰った。そこで足腰の衰えを感じる。自分の部屋に行くために階段を上るも、全然力が入らず、途中で足が上がらなくなってしまった。階段の途中で膝をついてしまった。1週間も入院して、部屋から出ずにベッドにいるとこうなってしまうのか…

寝たきりの老人なんてなおさら大変だろうなぁと思っていた。

ちなみに、1週間ほどの入院で、支払いは保険が利いてだいたい8万位であった。

 

これにてやっと私のおたふく病床記が終わる。